「学校で起こっていること」〜多忙化の実態から〜

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昨日は、教職員の新人の方と会う機会があった。学校に赴任してから一週間。めまぐるしい中で頑張っている様子をお話ししていただいた。目がキラキラ輝いていて、皆さん素敵でした。ただ、多くの新人の方が、学校現場が「こんなに大変だとは思わなかった」というのが感想。多忙化の話をグループディスカッションしていた。学校現場が、20台の先生方中心になって、どの職場でも若い人たちばかりになって、必然的に仕事時間は長くなっているようだ。
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経験が10年未満の先生に対して、昨日は何時まで、学校にいましたか。」という問いに、「23時」「21時」「22時」と、19時前に帰れる環境はないようだ。「警備会社から、電話が来るまで」いましたという方も何人もいて、このまま倒れてしまうのではないかと心配。
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また「多忙化の原因は?」という問いに、「アンケートや調査が多すぎるのが大変。職員室は紙だらけ。職員会議の資料。提出書類・丁寧にすればするほど書類の山・・教室から職員室に帰ってくるといろんな紙の山が置いてある。」「教材研究の時価が取れなくていっぱいいっぱいで授業に向かっている。」「丸付けをしていて、机の上で寝てしまう毎日。」「これ以上何かが増えたら、もうもたない。」「土日でも、仕事をしないと追いついていけない。」
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若いがゆえに、仕事のやり方がわからず時間がかかるということはある。私も、20代の頃は、体力に任せて遅くまで学校に残っていたことを思い出すが、当時と何かが違う気がする。もっとおしゃべりしたり、子供のことを話すことで時間を使っていた気がする。
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学校の中で起こっている当たり前のこと、「コンピュータの情報管理による過多な情報」、「丁寧さをもとめる指導」、「説明責任と評価と指導の一体化」、「児童生徒への安全安心」、「個々への丁寧な指導」、「保護者への丁寧な対応」、「地域との連携」、それ以外の様々な課題が学校へ教師へのしかかる。 みんないいことで必要なこと、だからやめたり、手を抜くことができない。何が原因というわけでなく、複合的に「学校多忙化症候群」となっている。だからことあえて、そこにメスを入れる必要がある。質を落とさず、子供と向き合う方法を考えるべき時に来ている。
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かつて、池上中学校にいた時に、職員会議は一ヶ月に1回、それ以外の部会(職員会議に提出する原案を考える各委員会)も職員会議に前に1回。それ以外の会議は、なくした。それは、「子どもにきちんとつくために」「授業の質を上げるために」授業と部活に力を入れて、子どもたちをみることに専念。 校内の授業研究は、一人が年間3回以上行ったが、日常でやっている授業を見合うこと、いつ授業に他の先生が入っても構わないことを確認しながら、壁を作らない指導の中で、生徒の個々を伸ばす以上に「教師力」を高めることに力点を入れた。 学校は、19時には、鍵を閉めて職員室を出ることを目標にした。
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管理職は、何を削るかに力を注いだ方がいいと思う。学校の特色を出そうと、新たな知恵をしぼる前に、教師が元気に子どもと向き合うために、「仕事を削る勇気」が必要。教育委員会もそれを進めるべき時に来ている。 ただ一方で多忙化解消の、最大の課題であり、一番の問題は、教育予算に関わることだ。現実に一向に教員の定数が増えないということだ。仕事量が格段に増えているなら、それに見合った教師数を配置することが必要なのだ。しかし、財務省は、「35人学級から40人学級に戻したら」という提案もでるほど、現場実態を見ていない。その中で、現場教師は、期待に応えるべく頑張っている。 画像 ふと、一冊の本を思い出した。「時間泥棒」に時間を取られてしまった街で、時間泥棒とたたかう、「モモ」(ミヒャエルエンデ)の本だ。一人の少女が、街の中が大きく変わっているのに気づく、せかせかして、一人一人が自分のことに、また、他の人に関わる、関心を持つ時間を失っていく・・・・「モモ」は時間の花を探しにカシオペイアという亀とともに歩いていく。それぞれの時間を取り戻すために。   「子供と向き合うことが仕事の先生たち。」こんなにも熱心な教師がたくさんいるのに、疲労で潰してはいけないと感じた。そのために、私も頑張る決意をしました。
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「モモ」  ミヒャエルエンデ  
貧しいが、のほほんとした温かい生活を送っている村人たちのところに、効率こそ大事だとささやきながら、無駄なことをどんどんやめさせようとする灰色の男たち、時間ドロボウがやってくる。 おっとりしたモモが、そんな時間ドロボウから奪われた時間を取り返して村人の生活を元通りにするために立ち上がるといったストーリー。 70年代に書かれた本であるが、時間に追われる現代人と資本主義の行く末を暗示するかのような世界観が描かれている。本当に大切なもの、幸せってなんなのか、そもそも無駄なことってなんなのか、 立ち止まってじっくりとそういうことを考えるべきときに感じるものがある本。
時間の国に住むマイスター・ホラがモモに語った言葉。 「人間はじぶんの時間をどうするかは、じぶんできめなくてはならないからだよ。・・・・・時計というのはね、人間ひとりひとりの胸のなかにあるものを、きわめて不完全ながらもまねてかたどったものなのだ。・・・・人間には時間を感じとるために心というものがある。そして、もしその心が時間を感じ取らないようなときには、その時間はないもおなじだ。」 人の話を聞くということ。「モモ」のような話の聞き方 たとえば、こう考えている人がいたとします。おれの人生は失敗で、なんの意味もない、おれはなん千万もの人間のなかのケチなひとりで、死んだところでこわれたつぼとおんなじだ、べつのつぼがすぐにおれの場所をふさぐだけさ、生きていようと死んでしまおうと、どうってちがいはありゃしない。この人がモモのところに出かけていって、その考えをうちあけたとします。するとしゃべっているうちに、ふしぎなことにじぶんがまちがっていたことがわかってくるのです。いや、おれはおれなんだ、世界じゅうの人間のなかで、おれという人間はひとりしかいない、だからおれはおれなりに、この世のなかでたいせつな者なんだ。 こういうふうにモモは人の話が聞けたのです! 友達ベッポとモモとの会話から 「仕事って何か」考えさせられます。 「なあ、モモ、」とベッポはたとえばこんなふうにはじめます。「とっても長い道路をうけもつことがあるんだ。おっそろしく長くて、これじゃとてもやりきれない、こう思ってしまう。」 しばらく口をつぐんで、じっとまえのほうを見ていますが、やがてまたつづけます。 「そこでせかせかと働きだす。どんどんスピードをあげてゆく。ときどき目をあげて見るんだが、いつ見てものこりの道路はちっともへっていない。だからもっとすごいいきおいで働きまくる。心配でたまらないんだ。そしてしまいには息がきれて、動けなくなってしまう。道路はまだのこっているのにな。こういうやり方は、いかんのだ。」 ここでしばらく考えこみます。それからようやく、さきをつづけます。 「いちどに道路ぜんぶのことを考えてはいかん、わかるかな? つぎの一歩のことだけ、つぎのひと呼吸のことだけ、つぎのひと掃きのことだけを考えるんだ。いつもただつぎのことだけをな。」 また一休みして、考えこみ、それから、 「するとたのしくなってくる。これがだいじなんだな、たのしければ、仕事がうまくはかどる。こういうふうにやらにゃあだめなんだ。」  ]]>