東日本大震災から12年

▼昨日3/11晩、震災当事12才だった陸前高田の野球少年「佐々木朗希」さんが野球選手となって、WBCで先発し、世界を相手に160キロを超える速球で三振を取る姿を見た。
▼2011.3.11 東日本大震災から12年の歳月が過ぎた。あの日の事は、多くの方が、記憶し、それぞれの東日本大震災体験があるはず。私の3.11を少しばかり記録したい。12年前のあの日は丁度、初めて選挙直前(公示まで一ヶ月前)であり、選挙の準備で地元の佐島の海岸を歩いているときに、地震に遭遇した。気持ち悪い揺れ。これまで体験したことがない長い揺れだった。
▼ 車のラジオから「東北地方で大きな地震」との第一報。「東北なのか?」その数十分後、海岸側に居た私は、佐島の海が大きく引いていくのを見た。多くの地域の方が海岸にでて、口々に「地震のこと。」「揺れて驚いたこと。」「海がこんなに海水が引くのは見た事がない」と話していた。
▼幸い三浦半島に津波は来なかった。テレビで流れる津波の様子に目が釘付けになる。被災地の事を思うと胸が痛んだ。
 夕方から地元の中学校に避難した住民が続々と集まっていると聞き、その対応に父と向かった。停電をしていたので、電源確保に地元の電気屋さんが率先して発電機とライトを用意していただいた。多くの住民の皆さんと一晩過ごすことになった。
▼後に横須賀市議会で私も委員として参加した「災害対策に関する特別委員会」を設置した中で、学校ごとの避難所設置の困ったこと、うまく対応した例について、当時の学校長に来ていただき聞き取りをした記録が残っている。
▼「夕方から、たくさんの方が集ってきて、食事を求められスーパーに行ったが、もうどこにも売っていなかった。」「パンやおにぎりを先生方が買いにいって、うちの学校では、子どもさんたち、お年寄りから先に渡した。」・地元の町内会・自治会の役員さんを中心に学校教師が対応した。中学校では、中学生がよく働いてくれたとの記述も多い。
▼その後、現地に何度も足を運びながら被災地から学ぶことを共有し、委員会でも発言を繰り返したのを思い出す。佐島の避難路の必要性を説き、避難路は三本作ったこともその一つだ。
▼整備できてから10年は経つ。先日、浜から崖池に階段条に作られた避難路を歩いてみた。すると、台風等で一部通行困難になっているところもあった。今後も点検と再整備必要だ。また、佐島の急傾斜の整備は、土地の権利者の確定ができず、行政も動けないという課題も残っている。
▼下の写真は2012.4、震災後大楠地域のかたとバスを仕立てて、被災地を歩いた時のもの。岩手県陸前高田の瓦礫となった高田高校にて、カメラマンの広田さんに撮っていただいたものです。
▼震災から12年経って、改めてやることはたくさんあることを確認した。震災はいつ起こるかだれにも予測できない。だから準備を怠らない事が最大の防災対策だ。東日本大震災から12年目を迎え、さらに、9月に関東大震災100年も迎える
「原点」として、この場所から街を見つめたいと思っています。