2月11日、「稲荷講」が開かれました。

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写真は地域の餅つき、講ではありません。  地域での「稲荷講」という「講」があり、その仲間で集まっては、懇親会を行うというものだ。もともと地域で別々に数カ所でおこなわれていた、ものを1つにまとめて、祖母神社で数年前からおこまっているようです。  「講」というのは、地域の方の民間の集まりで、地元では町内会の役員さんや元役員さん、地元のおじさんたちを中心に集まっては、年に一度か二度、懇親会をはかってる。  少し「講」というものについて、Wikipediaでに調べてみた。 歴史的に見ても「講という組織は、平安時代から始まり、戦国時代に「講」の組織化され、民衆の組織として幅広く位置づけられた」という。民衆の歴史の中で重要な役割をしてきたものなんですね。  「講」には、いろいろな種類があり、相互扶助の意味を持つものに「頼母子講」「無尽講」はお金を貯めて、必要な人が、「講」からお金を借りて、家を建てたりと、貧しい農村の諸民が、助け合うための知恵だったようだ。  今回、私が参加したのは、「稲荷講」というもの。祖母神社の脇に二社のお稲荷さんがある。共に「正一位」と、位も高いものだ。そのお稲荷さんをまつるということが「稲荷講」の集まりの元となっている。 お稲荷さんに、油揚げや魚・野菜などのお供えをする。 お稲荷さんといえば、油揚げが好物と決まっている。 狐が油揚げを好きという逸話からだが、本当の狐は、肉食。狐は油揚げは食べない。なんで、油揚げになったのかはわからないが、そこから、油揚げで酢飯を包んだ食べ物が、「お稲荷さん」となる。  
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  お稲荷さんで最も有名なのは、伏見稲荷。京都にあるすべてのお稲荷さんの本宮といわれる若い頃、伏見稲荷で長~い鳥居のトンネルを通って、駆け上がったのを思い出した。とにかく、真っ赤な鳥居が山の中腹まで、つづく。
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歴史的であり伝統的な、「講」が、今の社会の中に、生き続けていることに、西海岸の村落共同体の風情を感じます。会費制で会費で、賄うというのも、昔ながらの方法だ。昔からこうやって、集まっては、それを楽しみに、「明日もがんばんべーよ」と活力に変えたり、村の様々な出来事を話し合ったり、そんな「場」だったのだろうと思います。現代ではなかなか珍しい、村落共同体の中での「場」としての「講」。  なかなか面白いものです。 「講」ウィディベキア
講(こう)とは、同一の信仰を持つ人々による結社である。ただし、無尽講など相互扶助団体の名称に転用されるなど、「講」という名称で呼ばれる対象は多岐に渡っている。 元々の講は「講義」「講読」の「講」であり、平安時代に仏典を講読・研究する僧の集団を指すものであった。後に仏典の講読を中心とする仏事(講会)を指すようになり、さらに各種の仏教儀式一般に講という名称をつけるようにもなった(報恩講など)。 この「講」が中世ごろから民間に浸透する過程で、様々な信仰集団に「講」という名称がつけられるようになった。信仰集団としての講には、地域社会の中から自然発生的に生まれたものと、外部からの導入によるものとがある。前者の講は、氏神・産土といった地域の神を信仰する氏子によって、その神祠の維持のために運営されるものである。社格の高い神社の講では、「村」の範囲を超えて広い範囲に構成員を持つものもある。 「講」の組織が強化されるのが、戦国時代のことである。講元は国人や地侍等があたり、また講元自身が地侍化した。浄土真宗の「講」の組織によって加賀一向一揆などが行われた。「講」という組織上、半民主的な政治が行われた。 講は講社ともいい、講の構成員を講員という。講の運営にあたっては講元(こうもと)、副講元、世話人などの役員を置き、講員の中から選任され、講の信仰する寺社から委嘱されるのが通常である。 外部からの導入による講は、当初は山岳信仰に関するものであった。立山などの修験者が霊山への登山を勧めて全国を廻り、各地に参拝講が作られた。それにならって各地の神社・寺院へ参拝するための数多くの講も作られるようになった。これらの参拝講では、講の全員が参拝に行く「総参り」もあったが、多くは講の中から数人を選び、代表して参拝する「代参講」が行われていた。 相互扶助団体(頼母子講・無尽講)への転用は、この代参講から派生したものである。すなわち、皆で金を出しあって、参拝に行くのではなくその金をくじや入札によって構成員に融通するというものである。
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