大人の社会見学2 国宝級の「浄楽寺の運慶作の仏像」はすごい。
▼実際にそばで見てみると、釈迦三尊像は、とりわけ阿弥陀如来は想像よりも格段に大きく迫力があり、鎌倉のどの仏像と比べても見劣りするものではない。確かに本物の力なのだろう。文治5年(1189年)にこの寺は建立された。鎌倉幕府創設初期の有力者である侍所の別当和田義盛が創設した。しかし、この寺の仏像が運慶作と確認されたのは比較的最近である。 ▼昭和34年4月に仏像研究家の久野健が、三浦半島にある芦名・浄楽寺の諸像を調査した。調査中に、毘沙門天像の頭部が首から抜け、胎内に月輪形銘札が納入されているのを発見した。その銘札には、文治五年に、「平(和田)義盛」を願主に「大仏師興福寺内相応院勾当運慶」が作った、と記されていた。 ●阿弥陀三尊(あみださんぞん)像 ヒノキ作り、彫眼(ちょうがん)
(中央:阿弥陀如来:あみだにょらい、向かって右:観音菩薩:かんのんぼさつ、同左:勢至菩薩:せいしぼさつ)
▼しかし、これだけで、この毘沙門天像が、銘札どおりの運慶作の像だという確証にはならないが、この墨書は明らかに鎌倉時代の墨跡で、しかも阿弥陀如来像の胎内背面に一面に記されている梵字と、同筆である事が確認された。 ●毘沙門天(びしゃもんてん)像 ヒノキ作り、玉眼嵌入(ぎょくがんかんにゅう)
▼もともと、この阿弥陀如来の胎内にも、後筆が明らかな「文治5年勾当運慶作」の銘札が収められている事が、 知られていたが、胎内墨書と毘沙門銘札が同筆という事などから、阿弥陀如来像も毘沙門天も、間違いなく「運慶作」と確認された。 ▼不動明王像は、そのとき首が抜けなかったが、X線撮影で、月輪形銘札が納められている事がわかり、その後の修理の際、毘沙門天像と同文の銘札が取り出され確認された。 ●不動明王(ふどうみょうおう)像 ヒノキ作り、玉眼嵌入(ぎょくがんかんにゅう)
▼そういった経過から、浄楽寺には、五体の運慶作とされる仏像がある。全国に、運慶作と伝えられたり、推定される仏像は数多くあるが、本物ということが証明されている「真作」は、少ない。 ▼この浄楽寺の5体を加えて、31体である。 31体の内5体がこの浄楽寺にある。運慶は当時幕府のあった鎌倉にも何度か来ているが、鎌倉市内のお寺には、運慶の真作はない。近隣では、金沢文庫の称名寺にあるのみだ。 ▼この運慶作の「阿弥陀三尊像」と「不動明王」は、大正時代に国宝に指定されたものである。後に重要文化財に格下げになったが、現在国の指定重要文化財である。本来は国宝の価値があるというもの。
▼また、仏像の持つ迫力と面もちがすばらしい。阿弥陀三尊増は本物を見ると写真よりも大きく感じられ、大変立派なものだ。顔も大変優しく、いい顔をしている。不動明王と毘沙門天の迫力と力強さは比類ないものだ。こんなすばらしい文化遺産をほおっておく必要はない。京都の当時の国宝にも負けない迫力を持つ仏像が800年を超える月日を超えて現存する浄楽寺。 ▼郷土史家の辻井先生からも「浄楽寺の収蔵庫は狭く、大変傷んできている」今後の改修が必要。という話も聞いた。また、保存や管理ももっとお金をかけてやる必要もあるだろう。 早期の改修を進めると同時に、改修の際に、郷土の宝として横須賀市は「運慶の五体の仏像」として、観光名所として打ち出したらいかがかと思う。 ▼まずは、「仏像の持つ魅力」、と「運慶というネームバリュー」、さらに「現存する31体のうち5体であるということのの貴重さ」など。
▼今後、人を引きつける要素をたくさん持つ、すばらしい歴史遺産を多くの方に見て頂きたいと思います。はじめて拝ませて頂き、予想を遙かに超えた良い仏様でした。地域の人にも公開でき、年二回の開帳でなく、年間を通じて公開できるようなものになれば良いと思います。
=浄楽寺(横須賀市) (浄土宗)
浄楽寺は、1189年(文治5年)、鎌倉幕府初代侍所別当和田義盛が建立したと伝わっている。鎌倉光明寺の末。和田義盛は、三浦大介義明の孫で、源頼朝の挙兵に従った武将。鎌倉幕府では、侍所別当として活躍した。頼朝亡き後、御家人の権力争いが保元年)、北条義時と対立し、由比ヶ浜で討ち死にした(参考:和田合戦 北条義時の独裁と和田義盛)。 浄楽寺の阿弥陀三尊像・不動明王像・毘沙門天像は、運慶の真作。毘沙門天像の胎内にあった銘札から、運慶が義盛と夫人のために造立したことが判明している。義盛の阿弥陀三尊の発願は、奥州遠征勝利祈願のためともされているが、願成就院を建立した北条時政への対抗からともいわれる。住所:〒240-0104 神奈川県 横須賀市芦名2-30-5
鎌倉にも運慶作と伝わる仏像が数多く存在するが、運慶の真作として確認されているものはない。 神奈川県で運慶の真作として確認されているのは、横須賀浄楽寺の「阿弥陀三尊像・不動明王立像・毘沙門天立像」、横浜市金沢区称名寺の「大威徳明王像」のみとなっている。 鎌倉幕府初代の執権北条時政が建立したとされる伊豆の国市願成就院の「毘沙門天像・不動明王像・こんがら童子像・せいたか童子像」は運慶の真作である(近年では、阿弥陀如来像も運慶作であるとする説もある)。
電話:0468-56-8622
アクセス:JR横須賀線逗子駅/京急逗子線新逗子駅より京急バス長井・大楠芦名口方面行きバスに乗り、「浄楽寺」下車すぐ。 駐車場:参道脇に駐車場あり。10台くらいは可能(無料)
収蔵庫開帳:毎年3/3、10/19の2回(それ以外は要予約)ただし大雨等の時は中止 拝観料 100円 運慶作の現存作品
運慶の作と称されている仏像は日本各地にきわめて多い(特に仁王像に多い)が、銘記、像内納入品、信頼できる史料等から運慶の真作と確認されている作品は少ない。以下は国宝・重要文化財指定名称に運慶の関与が明記され、運慶ないし運慶工房の真作として学界にほぼ異論のないものである。 ●奈良・円成寺 大日如来坐像(国宝) – 安元2年(1176年)10月。]]>
台座蓮肉天板裏面に運慶自著と思われる墨書銘があり、これに拠り運慶は本像を11か月かけて制作し、仏像本体の代金として上品8丈の絹43疋を賜ったことがわかる。当時この仏像のような等身大の像の制作期間はおよそ3か月程度とされ、それよりも遥かに長い日数をかけて造仏していることから、運慶が他の仏師の助力を得ず独力で制作したと考えられる。願主ではなく仏像を作った仏師自らが名を記した最初の例としても貴重である。この銘文は大正10年(1921年)に発見され、近代的な運慶研究の端緒となった。 ● 静岡・願成就院 阿弥陀如来坐像、不動明王及び二童子立像、毘沙門天立像(重要文化財) – 文治2年(1186年)
(不動・二童子・毘沙門天像像内納入木札墨書) ● 神奈川・浄楽寺 阿弥陀三尊像、不動明王立像、毘沙門天立像(重要文化財) – 文治5年(1189年)
(不動・毘沙門天像像内納入木札墨書) ● 奈良・東大寺南大門 金剛力士立像(国宝) – 建仁3年(1203年)。 運慶が中心となり、快慶、定覚、湛慶ら一門の仏師を率いて制作。(『東大寺別当次第』、阿形像持物金剛杵墨書、吽形像像内納入経巻奥書) ● 奈良・興福寺北円堂諸仏 – 建暦2年(1212年)。
『猪熊関白記』の記事により運慶一門の作であることがわかる。弥勒仏及び両脇侍像、四天王像、羅漢像2体(無著・世親像)の計9体の群像であった。ただし、両脇侍像は失われ、四天王像も所在不明である(現・興福寺南円堂四天王像を旧北円堂像とする説もある)。弥勒仏像台座反花内側の墨書に各像の担当仏師の名が記されているが、判読不能箇所が多く、全容は不明である。 弥勒仏坐像(国宝)運慶の指導のもと源慶、□慶(静慶か)らが制作。無著菩薩・世親菩薩立像(国宝)運慶の指導のもと運□らが制作。銘文に判読不能箇所があるが、運慶の5男運賀、6男運助らが関与したと推定される。 以上の諸像の制作には、複数の仏師が分担して関与してはいるが、近現代の美術作品のように個々の芸術家の作品ではなく、工房主宰者である運慶の作とみなされている。 ●神奈川・称名寺光明院 大威徳明王像(重要文化財) - 建保4年(1216年)(像内納入文書)。東寺講堂の模刻像で現在は水牛座が亡失し、同時に製作された大日如来像、愛染明王像は行方不明。伝空海作として子院一ノ室に伝来した。